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Posted by 滋賀咲くブログ at

ボランティアと報酬

2013年05月16日

最近ボランティアと報酬について考えることが何度もあった。いろいろ考えて調べてみたら、なかなか興味深い記事を見つけた。
報酬とは現ナマだけとは思ってはいなかったが(もちろん現ナマも含まれる)、この記事は思いをうまくあらわしてくれている。

最近の発端は他所で行っていた何時もの里山活動、その現場は毎回山主さんから差し入れが届く、決して沢山ではない、缶コーヒーとお菓子が少し、そういや2~3年前竹藪の木を切っていた時も老人からパンとコーヒの差し入れをしていただいた、「そんなことしなくていいよ」というのだが、そんなことが重なりボランティアの報酬と責任を色々と考えていた。

ボランテイアの場合、心の持ち方、心のありようは大きな要素だ。今までうまく表現できないでいたのだが。
ちょっと長いが、みなさんの思いやいかに。


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執筆者は金子郁容(かねこ・いくよう)。
昭和23年生まれの応用数学者で経営工学者です。
「オペレーションリサーチ(企業経営を合理的に行うための科学的な調査・立案)の研究とともに,ボランティアなどさまざまなネットワークの可能性を探っている」。
教科書は桐原書店の国語?のp.108(大体,高校2年で履修します)。

この文章を読んで,まず感じたのは,筆者はボランティアのことがよく分かっている人だということです。
その難しさと例えようもない魅力がよく分かっている。
人の思いがけないつながりの連鎖の面白さが分かっているのです。

長いので,分かち書きをしてありますが(これをテキストにするのにとっても時間がかかりました),時間のない方は時間のあるときにでもお読みください。
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ボランティアの「報酬」      金子郁容

「ボランティアっていうのは,自分にとって一銭の得にもならないことを一生懸命やっているみたいだ。だから,ボランティアは偉い,感心だ」こんなふうに言う人は好意的な人だ。その気持ちが少し皮肉な側に傾けば,ボランティアは「変わった人だ。」,もの好きだ。」となるかもしれないし,反発心が混じ
れば,ボランティアは「偽善的だ。」となりかねない。

「偽善的だ」と言われたとき,ボランティアは考え込んでしまうかもしれない。自分がしていることが「見返り」を求めない「尊い」行為だと言う自信はない。もしかすると自分は,自分の力を誇示したいだけではないのか,「こんないいことをしましたよ。」と周りの人に自慢したいだけではないのか……と
考えだすと,自分でも不安になってしまう。

私は,ボランティアが行動するのはある種の「報酬」を求めてであるからに違いないと考える。私自身の限られた経験からもそう思うし,考え方の枠組みとして,とりあえずそのような想定から出発することが有効なアプローチであると思う。

ボランティアにとっての「報酬」とは,もちろん,経済的なものだけとは限らない。その人によっていろいろなバリエーションが可能なものである。私は,ボランティアの「報酬」とは次のようなものであると考える。その人がそれを自分にとって「価値がある。」と思い,しかも,それを自分一人で得たのではなく,だれかほかの人の力によって与えられたものだと感じるとき,その「与えられた価値あるもの」がボランティアの「報酬」である。

ボランティアはこの広い意味での「報酬」を期待して,つまり,その人それぞれにとって,自分が価値ありと思えるものをだれかから与えられることを期待して,行動するのである。その意味で,ボランティアは,新しい価値を発見し,それを授けてもらう人なのだ。

ボランティアの「報酬」についてわかりにくいところがあるとしたら,その本質が「閉じて」いてしかも「開いて」いるという,一見相反する二つの力によって構成されているからではないだろうか。

人が何に価値を見いだすかは,その人が自分で決めるものである。他人に言われて,規則で決まっているから,はやっているからとかという「外にある権威」に従うのではなく,何が自分にとって価値があるかは,自分の「内にある権威」に従って,つまり,独自の体験と論理と直感によって決めるものだ。その意味で,価値を認知する源は「閉じて」いる。

「内なる権威」に基づいていること,自発的に行動すること,何かをしたいからすること,きれいだと思うこと,楽しいからすること,などが「強い」のは,それらの力の源が「閉じて」いて,外からの支配を受けないからだ。しかし,ボランティアが,相手から助けてもらったと感じたり,相手から何かを学んだりと思ったり,だれかの役に立っていると感じてうれしく思ったりするとき,ボランティアは,必ずや相手との相互関係の中で価値を見つけている。つまり「開いて」いなければ「報酬」は入ってこない。

このように,ボランティアの「報酬」は,それを価値ありと判断するのは自分だという意味で「閉じて」いるが,それが相手から与えられるものだという意味で「開いて」いる。「外にある権威」だけに基づいて行動すること,つまり「開いている」だけの価値判断によって価値判断によって行動するのは,わかりやすいことであるとともに,楽なことだ。うまくいかなくとも,自分のせいではないし,いつでも言い訳が用意されているのだから。また,自分の独自なるものを賭ける必要がないから,傷つくこともない。しかし,「外にある権威」だけに準拠して判断するということは,物事をある平面で切り取り,それと自分との関係性を初めから限定してしまうことになる。それでは,何も新しいものは見つけれないし,第一,楽しくない。

一方,「閉じて」いるだけのプロセスも,複雑なところはなくはっきりしているし,周りのことを考えなくていいわけだから楽なことである。しかし,そこからは排他性と独善しか生まれない。つまり,「開いている」だけ,または「閉じている」だけの行動は,わかりやすく,楽であるかもしれないが,力と魅力に欠けるということだ。
新しい価値は「閉じている」ことと「開いている」ことが交差する一瞬に開花する。

ボランティアの関係性を不思議なものにしているもう一つの理由は,ボランティアの「報酬」をだれからもらうのかということに関して,通常のビジネスにおける取引先との関係や友人関係とは異なる原理に基づくプロセスが展開する可能性だ。

ボランティアは,規則に従って,決められたことを決められた相手とするのではないので,行動をする過程で次々と,予期しない,いろいろな人とかかわることになる。実際,ボランティアが行動を起こすとき,たいていの場合,さまざまな人に協力を要請することになる。そのプロセスで,「めんどうくさいことを頼むな。」と文句を言う人もいれば,けっこう興味を持って乗ってくれる人もいれば,こちらから頼まないのに思わぬ親切をしてくれる人も出てくる。

その「けっこう興味を持ってくれる人」や「思わぬ親切をしてくれる人」が,あなたに呼応してくれたというわけだ。したがって,あなたはそのタイミングを捕らまえて,ひと言お礼を言うなり,気持ちを伝えるなりすることで,その人とつながりがつけられることになる。ボランティアの目指している「つながりのプロセス」における「相手」というのは,初めからこの人,と決まった特定の人とは限らないというわけだ。―中略―

ボランティアが「報酬」を受取ったとき,特にうれしいと感じるのは,それが,契約に指定されたとおりに予定された人から得られたものでも,権力によって,強制によって得られたものでもなく,思いがけない人から,思いがけないときに,思いがけない形で与えられるからである。与えるほうはそれほどのものでもないと思っているのに,与えられたほうとしては非常に大きなものであるといったギャップがしばしばあることも楽しいことだ。

困った人を手助けしようといろいろ動き回るうちに,自分も困ったことになる。そんなとき助けてくれる人は,突然現れる。こちらが探すのではなく,向こうからやってくる,という感じがするときがある。そうなったのは,自分で「ふさわしい場所」を空けられたからだと感じるのはうれしいものである。

われわれのほとんどにとって,一人の人がかかわれるのは,身近な,ほんのささいなことでしかない。しかし,その小さな行動が「つながりのプロセス」を始動させることになれば,意外な展開を引き起こすことができるかもしれない。意外な展開を「引き起こす」というより,それに「巻き込まれる」といったほうがいいだろう。自分の力だけでことを運んでいく必要はない。意外な展開が巻き起こるときには,あなたがすることは「ふさわしい場所」を空けておくことだけで,後は他の人が,次から次へと自分から登場してきて力を流し込んでくれるのだ。そうするうちに「つながりのネットワーク・プロセス」は,あなたを,思ってもみないほど遠くに連れていってくれるだろう。  


Posted by 薪割りくらぶ at 10:26Comments(0)

5月例会:ファイナル伐採&材の引き上げ

2013年05月12日

今日は5月例会、過去最大の参加者でした。9時過ぎ現地土場につくともう沢山の会員が草刈をされていました。今日は何と構成26組に対し21組25名の参加でした。
2班に分かれて作業開始、主力部隊は鉄塔したから材の引き揚げです。他の現場で試されたチルホールワイヤーを使って面白いように材が上がります。しかし場所によっては材が太すぎます。本来なら下に降ろすべきものを上にあげるとですから皆さんバテバテ、そりゃ今日はあつかっもの。

さてもう一班は残りの伐採です。今日が最後ですが、くせのある大物が残っています。


もう木々は芽を吹いています。この高い木と左の木を抜きます。
チルホールの引き方、かけ方、タイミングなど研修も行います。また、受け口の角度や方向なども最後の研修です。

今シーズンも沢山の発見や学びがあり皆さん技術向上されたご様子、それにつけても怪我なく終われたことが良かったですね。


もちろん最後の運び出しにも力が入ります。しかし今日は2班を合わせて沢山の材が出ました。

帰り際、上の方から伐採現場を眺めてみましたが、見違えるようになり遠くの素晴らしい景色が遠望できます。


さあ次回は林床整理とゴミ撤去、チッパー作業です。
ご参加の皆さんは今後の自然萌芽と里山復活を思いながら現場を後にしました。  


Posted by 薪割りくらぶ at 21:52Comments(0)